2006年05月13日

[最終話] 対峙

「おい、満井。室井美月が玄関の入り口を凝視たまま動かなくなったあと、どうなったんだ?」
 急に黙ってしまった満井の態度に、目の前にいる佐々岡がたまりかねて、机を指でコツコツと数回叩いた。
 満井は机を見すえたまましばらく黙っていたが、ゆっくり顔を上げてこう告げた。
「す、すいません。もう話せません…」
「なんだ! 今まで調子よく話していただろ。ここからの話を聞くために我々はこうしてずっとつき合っていたんだ! このままじゃどんどん君の立場が不利になっていくんだぞ!」
 さすがに温厚そうな佐々岡も声を荒めている。ここまで長い時間満井の話を黙って聞いていたのは、室井美月がどうなって今どこにいるのかを聞きたい一心だったのだ。ところがその肝心な所を話せないとあっては逆上するのも無理はない。しかしそんな佐々岡とは対照的に、横にいる田口は血の気が多くもっと怒りを放出させるはずが、なぜか視線を下方に固定したまま言葉も発しない。
「と、とにかく今は、話したくありません。また今度いいますから…」これまでずっと淡々と話していた満井の声が明らかに動揺している。やはり美月の失踪について決定的な何かを握っているため言葉に詰まったのだろう。そう考えた佐々岡が徹底的に問いただそうと腰をすえたとき、横で足を組んでいた田口が口をはさんだ。
「…佐々岡さん、今日はそのくらいでいいんじゃないですか。また明日来てもらいましょう…」
 佐々岡よりはるかに若い田口がめずらしく反論した。確かに普段から自分勝手なところがある田口だが、尊敬している佐々岡のいうことだけには従う男のはずだった。
「お前も何いってるんだ! こっちは時間がないんだぞ、少なくても室井美月は出血したままいなくなったんだ! 悠長に構えていられないんだ…」そういい終わる前に佐々岡は田口の態度に異変を感じ声が消えてしまった。
 同じなのだ。今、この部屋にいる満井と田口、この二人の様子がまったく同様に顔を下方に向けたまま、固まったように体を動かさない。
「満井、今日はいい…帰れ!」軍の隊長さながらに田口は言葉を吐きすてた。その勢いに佐々岡も反論するタイミングを失ってしまい、満井が上半身をほとんど動かさず席を立った。
 満井はまぶたを震わせながら田口に目をやると、彼は小さくうなずいた。

「…ったく、どうするんだよ。あれだけ長々話を聞いていたのに、重要なところがまったく聞けなかっただろうが。しかも訳のわからん足の話をはじめるし、わかったのは美月と父親との近親相姦の事実くらいじゃないか。それ以外なんの参考にもならん! 室井哲夫には明日また満井の前に話を聞こう。ちっ、こんな調子じゃこの事件がいつ解決するかわからんぞ!」
 満井が部屋をでると、堰をきったように佐々岡が声をあげた。
「…これは、きっと解決しませんよ。室井美月はもうその夜に殺されています」
 田口は顔を強ばらせつつ吐きすてるようにいった。いつもの強気な態度とは明らかに違っている彼はまだ机の横を見つめている。
「殺された! 満井にか?」
「いえ、…室井悠子にです」
「はぁ? 何いってんだ田口! 母親は二年前に自殺しているんだぞ。この世にいない人間がどうやって人を殺すんだ?」
 まるで話にならないと、あきれたように部屋をでていく佐々岡を背中に感じながら、田口はつぶやいた。
「足が…。彼女は今もここにいたんですよ…」
 田口の視線の先に光るもの。満井とともに部屋を後にしたあの足が立っていたところには、ラメが散りばめられた真っ赤な爪が一枚落ちていた。

「満井君…」
 警察署の寒々としたフロアロビーから呼びかけた男は室井哲夫だった。自分の事情聴取のあとずっと待っていたのだろう、満井に気がつくと力無く足を運び近づいてきた。
 すでに室井にも以前までの生気がまったく感じられない。あの日から二日間仕事も休んでいることは、にわかに映えている無精ヒゲから推測できる。当然娘の安否ははっきりしていないので、今はしょげずに彼女の発見を祈るべきはずなのに、父はすでに抜け殻のようなありさまだった。
「待っていたよ、満井君…」
 小雨のふるなか傘もささずに二人は歩いていた。ふと見覚えのある道に、満井は室井家が警察署から近いことに気づく。
「美月は…きっと悠子に殺されたんだね。君と美月がつき合っていたなんて全然気がつかなかったよ。どうりで最近様子が違うはずだった」
 確認するような室井の口元は、開きなおっているように笑っていた。満井はその質問に答えようと左側にいる室井に視線を移すと息が詰まった。
 彼のすぐ肩越しに足が見えるのだ…。爪のない青白い粘土のようなあの足が室井の真後ろについてくる。思わずその足から上をなぞるように視線を移してもそこには誰もいない。何度も視線を往復させても下を見たときの足首だけしか確認できない。
 しかし満井の脳裏には室井家で見た悠子の醜い形相がしっかり想起され、あの晩の惨劇が蘇ってくる。こみ上る吐き気と同時に、全身の血流が鈍ったようなしびれを感じる。
「て、店長ぅ…」
「そういえば以前君は、娘さんと仲良くしていると奥さんが嫉妬しますよ。なんて冗談をいったことがあったね」
 室井は天を見上げ雨滴をうけながら静かに話しはじめた。その目ははるか遠くを見つめ、満井の言葉など耳に届きそうもない。
「それはまったくの冗談でもなかったんだ。もう美月から聞いたかもしれないが、悠子の連れ子だった美月とはじめてSEXしたのは四年前だった。悠子との結婚で高校生の美月と住みはじめたときから、すでに私のなかの神経が狂いはじめた。美月は美しすぎた。そして美月が父親以上のものを求めた瞬間、私は彼女の親ではなくなってしまった…んだ」
 何度視界を室井に向けてもやはり足が、悠子がそこにいるのだ。彼はその存在に気づいているのだろうか、その上でこんな話をはじめたというのか?
「二年ほど前、とうとう美月との関係が悠子に知られてしまった。あいつは驚き、苦しみ悩んだ末に、美月との関係を絶って今までどおり家族として生活してほしいと願い出た。悠子は惨めなそれでも、自分の立場よりも三人での生活を望んだんだ」
「しかし…私はその気持ちを拒んでしまった。もはや美月への想いを消すことも隠すことさえできなくなっていたんだ。次の朝、悠子はリビングでのたうち回っていた。発見した美月が私を呼んだ時には、ただれた口から血をまき散らしながら、悠子は獣の奇声のような声を私たちに浴びせていた。なんていっているのか、聞き取れなかったけど内容には察しがついていた。相当の苦しみのなか、悠子は体中をかきむしったらしく、見つけたときにはあらゆる皮膚が切り刻まれたようにボロボロだった…。誰にも邪魔されないところではなく、あくまでもあの家で断行したのは、その姿を私たちに見せつけるためだったんだろう」
 その話を聞き満井は当惑した。悠子が自殺を図った直接の原因は、三人での生活を拒んだ店長だったのだ。彼女の申し出通りにしていれば、自殺することはなかったかもしれなかったというのか。
「それからだ、私の写真に足が映るようになったり美月の目にもそれが写るようになったのは。悠子は強い怨念を抱きながら、私たちからずっと離れずにうかがっていたんだ。…殺すタイミングをね。君と美月がつき合い幸せを感じたところで、悠子は時が来たんだと思ったんだろうな」
 満井は言葉を失い目を細めた。
「三、四日前から美月は家をでたいといいはじめていた。私たち二人が離れれば悠子が現れなくなると考えていたんだろう。…しかしどの道、美月はこうなる運命だったんだ、君のせいじゃない」
 満井の心には室井哲夫に対して疑念を抱いていた。確かに美月は実の母親を裏切った。しかしそんな美月を義父である哲夫が静止しなくてはいけなかったのだ。しかし彼はそれを怠ったばかりか、義娘の誘いを欲望のまま受け入れただけでなく、三人で暮らしたいという悠子の譲歩すら踏みにじった。
「美月の運命はもっと変えられたはずです。それをあなたが閉ざしてしまったんだ。あのビデオテープさえ僕に見せなかったら、真実を僕が追究しなかったら美月は殺されなかったかもしれない…」
「いや、私たちは悠子に審判を仰ぐべきだったんだよ。このままでは生まれ変わっても、きっとこの業苦に苦しむことになるだろうからね…」
「あの晩悠子さんはまるで僕を美月に会わせないようにするみたいに、足だけで姿を見せました。あなた達同様に僕の前にも彼女が現れたんです。きっと彼女の心のなかに娘を殺したくないという気持ちがあったんでしょう。それでも美月は殺されなければならなかったんでしょうか!」
 満井の訴えにさえ室井の表情は変わらなかった。しかしこの男は美月を失っておかしくなったのではない。妻の連れ子と姦淫したときからすでに何かが狂いだしていたのだろう。
 しかしその罪がどれほどだろうとも哲夫はすでに廃人のようになってしまった。家族二人に憎しみや哀しみだけを残して先立たれたこの主人が、以前のような明るい人格に戻る日はもう来ないだろう。

 道は県営団地を過ぎ、見たことのある家にたどり着いた。昼間はまだ捜索をしていたようだったが今の時間は誰もいない。時折門灯に溜まった雨水が下に敷いてある青シートにこぼれ、ブツブツ…と現実的な音を鳴らす以外は、このあたりは静まりかえっている。
 西の空が一際どんよりしている。この様子では夕から雨足が強くなるかもしれない。
「ちょっと疲れたな、私はすこし休むよ…。明日は一応出勤してくれ。長谷部君も一人で大変だろうからね」
「店長、まだこの家に入るんですか…?」
 室井はすでに娘がどうなったのか把握している。しかし彼は妻の悠子が自殺をし、彼女によって愛する義娘を殺されたこの家に入ろうとしていた。
 そんな室井の眼こそもはや亡霊そのものに見えた。すべてを失い、何かを悟って覚悟を決めたとでもいうような心魂に徹している態度にも見える。
「満井君、美月は…苦しんだのかな?」
 弾力をまったく感じないほどやわらかい笑みを浮かべながら室井が聞くと、満井は小さく点頭した。もうこの男を救う手だてはない。そう、美月が差しだす手を握れなかったときと同じ気持ちで、意志薄弱となった室井を見つめている。
「…では、僕は失礼します」
 ふり返った満井は来た道をもどりはじめた。小雨が降るなか、視界を探るが足はもう見えない。
 恐らく彼女は…。
 かなり思い迷ったあげく、五十メートルほど歩いたところで満井は意を決して室井哲夫をふり返った。
「くっぅ!」
 力なさげに手を振る室井の目の前、すでに触れているのでは思うくらい至近距離に、血汁でまだらに染めあげたワンピースを着た悠子が立ち、哲夫と向きあっていた。
 胸筋をえぐるような満井の鼓動が一息にわき上がった!
 もはやここから両者の表情をうかがい知ることはできない…。

―了―
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2006年05月06日

[第十九話] 悪魔だ…

「み、美月。…どうした、大丈夫か?」
 リビングテーブルをはさんで満井は言葉を投げかけた。小刻みに震えている彼女の顔、手のひらがまるで血の気が引いてしまったかのように色素を失って見える。
「陽平くん、いるの。またここにあの人がきた…。助けて陽平くん」
 その言葉を耳にし、脳でその内容を理解した瞬間、満井の心臓が大きく波打った。理由は彼女の言葉のではない。そう、確かにこの部屋にもう一人いるのだ! しかし姿は満井の視界にはなく、かといってそれを確認するために辺りに目を配ることなど恐ろしくてできそうにない。しかし確かに「彼女」は感情をむき出しにしてこのリビングを徘徊している。その肌を突き刺すような感情は…怨恨!
「陽平くん…」
 美月はソファーに座ったままテーブル越しにその右手をのばしてきた。その顔はまるで地の底から助けを乞うような、迫りくる死から逃れたいという胸裏の現れに他ならない。
 それは満井にも解っていた。今彼女の手を握らなければとんでもないことになってしまう。この人は、美月の母親はこの娘をゆるさないばかりか、その恨みを今はらそうとしていると直感していた。
『幸せにはさせない、幸せにはさせない…』
 遺書の言葉が頭のなかを埋めつくし、母親の気配が伝える怒りによって脳が麻痺してしまったような意識に襲われるが、もしも今、自分が美月の手をつかめば母親はいなくなるかもしれない。根拠のない想像だったが確かに満井はそう悟っていた。
「陽平くん、お願い! たすけてぇ!」
 とうとう彼女の言葉は命乞いをする生贄のような叫びとなり部屋中に響き渡った。
 …しかし、満井はのばされたその手に応えようとはしなかった。
 いくら美月が叫んだところで、彼は細かく首を横に振るだけだったのだ。
「ど、どうして?」
「このままでは君は、悪魔だ…」
 満井が手を差し出せなかったのは、美月と父の哲夫が犯した罪の重さ、母親が死んでもまだ自身の存在を写真に、ビデオに、そして視界の隅に具現化させているその憎しみや哀しみが満井にも伝わったからであった。彼女は実の娘と愛する夫に裏切られて苦しみ、農薬を飲んでもがきぬいたあげく命が果てた。その恨みだけをこの世に根ざして…。
「陽平くんっ!」
 突然リビングの灯りが消えた。
「いやー!」再び美月の叫声が夜陰に広がる。
 満井が天井を見上げると、消えた照明のある場所に、髪をなびかせた不敵な面魂の女がこちらを凝視している。状況が把握しづらいほど闇のはずなのに、女の真っ白な着衣だけがぼんやり光り、その燭光により顔面が浮かんでいるのだ。彼女が天井にへばりついたままじっと見つめている相手は美月だった。
 満井が見たときの室井悠子は一瞬、悲しそうに笑っているようにも見えたが、瞬く間に目玉を大きく開き瞳孔が収縮すると、一転して怨色と怒りの形相へと変貌した。潰れた左の眼球はどす黒く変色し、顔中には無数の引っ掻き傷が走り、激しく表情を変えた拍子に割かれるような生乾きな音とともに傷口から顔の皮下組織がのぞく。身体が発する光により、苦しみもがいた果ての姿をどこまでもはっきり確認することができてしまう。
 そんな彼女の姿に取り憑かれたように放心状態のまま美月に目をもどすと、彼女はまだ満井を見つめていた。しかしその顔の震えは瞬間ごとに激しさを増し痙攣に近い振動に変わると「あっ、あっ、あっ…」ただ呆然と開いていた口からは鼓動にあわせて、金切り声を数回発した。
「バサッ…」一瞬の出来事だった。
 突然満井の顔に激しく空気がふりかかり、美月の姿が白く消えると悲鳴のような声が何かに阻まれたようにこもって消えていく。
 天井にへばりついていたその女が、ワンピースのような白く光る服を羽織ったまま美月めがけて降ってきたのだ。ソファーが縦に大きく揺れ、衝撃に耐えられなくなった背もたれが彼女とともに倒れると、パキッという乾いた音の後に続いて骨がこすれるような不快な実音が鳴り響いた。
 満井の目の前には、今までそこにいたはずの美月が降ってきた女の衣服によって覆われ、わずかにもがいている手と足だけが映っている。所々血が固まっている頭皮が見えるほど髪が薄い悠子は、下にいる美月に何かを語るように顔をうずめている。
「ごっごめんなさい…おかあさん…ごべんな…ごぶっ!」
 もはや言語をもたない豚の悲鳴のように美月の言葉が水っぽい音に混ざって消えていくと、美月がいるはずの板張りの床が真っ赤に広がりはじめた。まるでソファーから湧きでる泉のような錯覚をうけるほど血汁が勢いよく床まで達するなかに、口を開けたまま食べ物を咀嚼しているような音が部屋に鳴り響く。わずかに見える美月の足はもみじのように「バッ」と指を広げたまま激しく痙攣していたが、徐々に動きが鈍り、最後に一度大きく足首をそらせ痙攣するとそのまま動かなくなった。
 すぐ目の前でまったく身動きもとれずに、ただことの成り行きをじっと見つめている満井に悠子は顔を上げると、ただれた口から血汁を滴らせながら告げた。

―このこをしあわせにはさせない―

 白く光っていた母親のワンピースはすでに深紅に染まり、そこからわずかにのぞく彼女の手足には無数の引っ掻き傷が走っている。しかもその傷の皮膚もめくれあがり、すでに水気を感じない内部の組織も空気に触れていた。そして手足の爪はほとんどがはがれ落ち、爪床とよばれる爪があった下の部分には、未だに皮膚が形成されない無機質な中身を露呈させているのだ。確かにそれはビデオや写真に写っていた足と画一していた。
 すると悠子は再び目を大きく見開き、口元に笑みを浮かべながら美月の爪を次々とめくりはじめた。ついさっき自慢げに見せてくれたスカイブルーの爪は、めくり取られるたびにその姿を血に染めあげ、ラメだけが闇に残るわずかな光りに反射していた。あたりに肉が裂けたような音が小さく響くが、すでにその音意外に美月から体の反応は消えている。
「ブズズ…ズズ…」
 やがてスクラップされてしまった美月の体から音が消えると同時に、非現実の惨事により錯綜した満井の意識も消えていった…。
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2006年04月29日

[第十八話] 真実

「待ってて…」
 しばらく考え込んでいた美月がそういって席を立ちました。たぶん自分の部屋へいったんでしょう、戻ってきた彼女の手に南京錠がついた木箱が見えます。
「哲夫さんとお母さんが結婚したのは四年前だった。お母さんは再婚で、私は前のお父さんの子供だったの。哲夫さんが新しいお父さんだって紹介された時、私は高校生になったばかりだった」
 哲夫さん…この呼び方がすべてを物語っていました。
 美月と義理の父である店長は、一緒に住むようになった一年後に深い関係になってしまった。それを告げる彼女はまるで感情を持たない無機質な口調でした。
「そんな…冗談だろ?」
 苦笑しながらそれしかいえなかった僕に彼女の告白は続きました。
「悪いことをしているのは私なのに、すでにもう母を裏切ってしまっているのに、あの頃の私は哲夫さんのことしか考えられなかった。自分の母親なのに、哲夫さんの妻という母が邪魔で哲夫さんさえいてくれればそれでいいと思ってしまったの…今思うとどうして母をあそこまで疎外し、追いつめてしまったのかわからない。あの時の私は本当にどうかしていた」
 室井店長と美月が姦淫していた。この事実だけで僕の脳に無数のナイフが刺さったような衝撃を受けました。
「それで嫌がらせにビデオから母親の姿を消したのか…?」
 おそらく彼女が母親に対しておこなった嫌がらせは、まだ他にもあったでしょう。しかし僕はもうそれ以上のことを聞く気にはなりません。
 この家にくる途中、僕は三回もあの奇妙な足を見ました。その事実に対する恐怖と動揺は強烈だったのに、美月の口から告げられた事実を僕の頭が認めようとしません。ありえないはずの足の存在は認めたのに、彼女の告白はそれ自体を受容できなかったんです。
「このビデオのことからしばらくして母はノイローゼ気味になり自殺した。母は農家をしている実家から農薬を持ち出して、私たちが寝た後に飲んだの。夜通し静かに苦しみぬいた母を私が見つけたときにはすでに瀕死の状態で、体中に掻きむしったような後があって左目にも指を差し入れたように潰れていて、手足の爪も自分でめくってしまった。そこに私が記憶している母の姿はどこにもなかったわ。そして母の近くから『あんたたちが死ぬまでずっとそばで見ているわ。私はあなたたちのそばにい続ける。幸せにはさせない、幸せにはさせない…』と書かれた遺書が見つかったの…」
 僕のなかで大事にしていた何かが粉々になって消えていく。この時はそんなみじめな気持ちでした。彼女の告白の前に僕を支えていた淡い希望は、落としたグラスのように粉砕されてしまったんです。
 そしてなぜあの足がボロボロだったのか、今の話によって理解できました。美月はまるで死んだ魚のような目でそこまで話すと、持ってきた木箱のカギをはずしてふたを開けました。そこには無数の写真が束になって入っています。彼女はそのなかから数枚取りだすと僕に手渡しました。
「陽平くんのいうとおり、そのminiDVカセットのデータは確かに私が加工した。でもあの足は私じゃない! 母が死んだ後から、撮る写真のほとんどに足が…農薬を飲んで変わり果てたお母さんの足が映るようになった。遺書に書いてあるとおりあの日からずっとあの人は私たちのそばにいるの…」
 僕は手渡された写真に重く冷たい戦慄を覚えたんです。
 カラオケボックスで撮ったらしい部屋のドアガラス越しの廊下、文化祭の模擬店をバックにクレープをくわえて撮ったすぐ後ろ、プールから上がってくる時に撮った水中…手にしているすべての写真にあの足が映っているんです。
 やはりあのビデオや歓迎会の写真と同じように、血色のないボロボロで爪がめくれていて、どれも必ず美月の方を向いていました。
「写真だけじゃない、私には時々その足が見えることもあるし、自殺した日からずっと母をすぐそばで感じるの! …だけどはじめてそれに気づいた日から哲夫さんとはまったく関係を持たなくなったんだよ! でも母は夫を寝取られ苦しめられた私や哲夫さんに復讐するために今も現れるの。それ以来いつ、何をしていても心から楽しいと思ったことなんてなかった!」
 涙声で訴える彼女が最後に手渡した一枚は、僕と釣りにいった河口湖の写真でした。近くの人に撮ってもらった二人並んでいるすぐ後ろ、ちょうど二人のあいだにもその足が映っているんです。指先にまで伝わる震えにより、僕の手から写真がこぼれ落ちました。
 そういえばボートの上で美月が湖面を見つめたまま動かなくなったことがありました。その時の怯え方は、あの湖の上にさえ母親は現れたということだったんです。
「はじめて僕らが出会った晩、君は夜中なのに家の外にいただろ。あの時も…?」
「ずっとあの人は家中を歩いていたわ。いつもなら哲夫さんがずっとそばにいてくれるのに、あの晩は帰りが遅かったからたまらなくて外に逃げたの」
「…僕もここにくる前、この足を見たんだ。まるでこの家にいかせないようにしているみたいだった」
 それを聞いた彼女は手を口に運ぶのが精一杯のようでした。
「陽平くんをはじめて見たとき、この人だったら私を助けてくれるかもしれないって思った。あなたが好きだから…私、陽平くんと一緒に暮らしたい。きっと哲夫さんと一緒にいるからあの人はずっと私たちの前に現れるんだと思う。だからこの家を出て二人でアパートを借りて…」
 その時、リビングの入り口の向こうから、玄関のドアが静かに閉まる音が確かに聞こえました。僕たちは見つめ合ったまま言葉を失い、耳だけに神経を傾注させました。その間玄関から通じる木製の廊下がきしむ音が小さく三回鳴ったんです。
 すると突然美月が「ひゃあ…」と声を呑み目を丸くして玄関に通じる入り口を凝視たまま動かなくなりました。
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2006年04月22日

[第十七話] 問い

「陽平くん! どうしたの、走ってきたの?」
 息を切らしている僕を心配そうに見つめる美月が愛しく思えます。あのビデオの細工や母親の自殺、そして僕にまで姿を見せたあのおぞましい奇怪な足、きっとそのすべてに正当な理由があるはず。それを今夜彼女の口から確かめるんだ。そうすればこれからも美月と一緒にいられるはずだと信じていました。
 すでに料理の香りがただようリビングに通されて、ソファーで待っているようにつげると、美月はそのままキッチンへ向かい夕食の支度をはじめました。僕は部屋のなかもよく見渡して視界に足が映らないことを確認したところで、彼女が一通りの支度を済ませるまで息と気持ちを落ちつかせます。
「もぅ、そんなに急いでこなくてもよかったのに…。今日はお父さんがいなかったからお店大変だった?」
 今夜の美月は髪を二つに結び、フリルのついたブラウスにデニムのスカート、そしてチェックのエプロンをしていました。床や壁などを木調で統一された山小屋風のリビングに彼女の姿がとても似合っていました。キラキラしている両手の爪をのぞくと、空のように青いマニキュアに花びらのような鮮やかなラメが散りばめられていました。
「きれいでしょ! 学校の友達にやってもらったんだぁ、へへっ」そういって広げた十本の爪には同様に彩ってありました。
 美月は僕に話しかけながらも手慣れた様子で次々に皿を運ぶと、みるみるうちにリビングの卓上テーブルはサラダやグラタンなど、彼女の料理でうまりました。
「さぁ、おまたせぇ、全部私のお手製だよ!」
 しかし僕には悠長に食事をする余裕はありません。一通りの準備が終わって美月がエプロンをとりソファーに腰掛けると、僕は待っていたようにデイバックから例の二種類のテープを取りだしました。
「美月、食べる前に話があるんだ。このテープのことなんだけど」
 一瞬で彼女の目つきが変わり、それまでの笑顔から一転して困惑の表情になりました。
「…どうして、満井くんがそれを持ってるの! もしかしてお父さんが?」
 すぐになんのテープか察するとは、やはり彼女にとっても記憶に深いものなのでしょう。僕が次の言葉を告げてしまうと、美月との関係が終わってしまうかもしれない。だけど僕は彼女を信じたかったから、このビデオに関するお母さんの自殺やあの足は美月とは無関係だと思いたいから意を決して口を開きました。
「このminiDVに映っているお母さんの映像を消したのは美月、君なんだろ?」
 彼女は目を丸くし、あわてて何かいおうとしましたが、なおも僕は続けました。
「母親の輪郭をマスキングしてその空間を別の背景で埋める。これほどきれいにできるのはCGに精通している美月しかできない。それに以前店にきたとき、使っているパソコンが古くて動画を扱うときにコマ落ちするっていってたよね。このデータにも一カ所コマ落ちしたらしく、消すはずのお母さんの姿が完全に残っているフレームがあったんだ。そして最後にお父さんによって録画を止めるためにカメラのスイッチを押す場面では、わずかなブレに気づかず消している背景が数ピクセル人の形でずれてしまっていた」
 僕の説明が終わるころには彼女はすでに僕から眼をそらし、持っていたフォークをテーブルに戻してそのまま下を向いていました。その表情はもはや先ほどまで楽しそうに料理を運んでいた彼女ではなく、どこともないテーブルの一点を見つめて何かを思考しているようです。
「どうしてだよ! お父さんとは血がつながってないけど、お母さんは本当の肉親だったんだろ? 店長は悠子さんの自殺した原因に、姿が消えたこの映像のことを重く考えていた。なぜこんなマネをしたんだ、これじゃあ…まるで君がお母さんを追いつめたようなもんじゃないか!」
 美月はじっとテーブルを見つめながら、僕の言葉を黙って聞き、その後もしばらく沈黙していました。きっと何か理由がある、彼女が本当に好きだったからテープのことも仕方のない原因があったはずだから、そこまで告げると彼女の言葉を待ちました。
posted by はる at 22:44| Comment(0) | TrackBack(0) | ―足― there is... | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月15日

[第十六話] 邪魔

 混み合う幹線道路から裏道へ抜けようと、交差点で右折待ちをしていました。何気なくサイドミラーで後方を確かめようとすると、たたまれたままのミラーに気づきました。店の駐車場でいつものようにたたんだまま、戻すのも忘れて走っていたんです。エレベーターの一件で相当慌てていたのだろうと、動揺していた自分に苦笑しながら開閉スイッチを押しました。
 安っぽいモーター音とともにミラーが開いていきます。前方を見ても対向車は一向に途切れそうにありません。これは信号がわかるまで右折できそうもない、なんて思いながら音の止んだミラーをのぞいたときです。
 呼吸を忘れ目を疑いました…。
 運転席のある右側のミラーにあの足が映っていたんです。やや下向きに合わせてある鏡から見えるその人は、僕のワゴン車の後部ドアあたりに立っています。まだらの斑点が対向車のライトによって浮き彫りになると、何も履いていない素足のまま、じっとこちらをうかがっているのがよくわかり、そこから重い視線すら感じました。
 ドアウインドウを開けて後ろを見てみる…とてもそんなことはできません。もし、窓を開けた瞬間襲われたらこのせまい空間以外に逃げ場はない。そんな思案がどれくらいの間続いたのかもわからないまま僕ののどは湿気を失い、息だけがかろうじて細く静かにもれています。
「は、はやく、早くいかせろ!」
 僕の頭には激しくふかすエンジン音がこだまし、クラッチを踏む左足の震えが一層惑乱させていくようでした。しかし対向車は一向に間を空けず流れてきます。
 その時確かに聞こえました。右側後部座席をノックする音が…コン、コン…。
「うわぁぁ!」
 けたたましいフォンを鳴らされながら、対向車のわずかな合間から強引に右折すると、ミラーをのぞくことなく小道を走り抜けていきました。
「どうして…、僕は関係ない! どうしてだよ!」
 これはもう幻覚というレベルではありません。あの足が僕をつけ回しているとしか思えない。なぜ? あのビデオを調べたりしたから…、美月とつき合っているから僕を追い回しているのか? あの足は美月が合成したただの画像じゃなかったのか!
 運転しながら僕は何度も室井店長の携帯へコールしましたが、すべて留守番電話になるだけでした。
「くそっ!」
 とにかく店長と話ができない今、美月から聞きだすしかない。どうしてあの足が現れるようになったのかを!
(悠子はビデオから自分の姿が消えたことで、自分も死んでしまうんじゃないかってひどく悩み、そのころから精神状態がおかしくなっていった)
(問題の足が現れるようになったのは、悠子が亡くなってからなんだ)
 そんな事があるはずがない! 呪いや霊の存在なんて妄想に決まっている!
 僕は店長が使っているという駐車場に車を止めると、美月の家まで走りだしました。
 通りから一本入った住宅地は、各曲がり角に弱々しい街灯の明かりが点々と灯っているだけで、駐車場から室井家に続く間に他の灯りはありません。
 彼女の家まで約百メートルの間にはそのライトが灯る曲がり角があり、そこを曲がればすぐ家の塀が見えてきます。僕はその交差点まで走ると、のたうつように止まりました。
「いる…」
 背中から熱い汗が一気に湧き出るのを感じつつも、目に映る事実をどうしても受けとめられず、ただそれを見つめるしかできませんでした。
 なんと曲がるべき塀の下方から、またあの足が見えているのです。街灯が照らさなければ見逃していたかもしれません、そして見逃していれば何もなかったかのように通りすぎていた可能性もありました。
 だが現に僕の目の前にそれは姿を現し、じっと待ちかまえています。足から上は闇に消えています。ここでようやくこの足の意図がわかった気がしました。この人は僕を美月のところへいかせないようにしている、ビデオの秘密を知っている僕を彼女に会わせないようにしているとしか考えられないんです。
 しかし僕は思いきってその曲がり角へ走りだしました。するとそれを阻もうとするかのように足も影から一歩踏み出すが、僕は目をつぶり何も考えずに走り抜けました。角を曲がった瞬間、僕の腕が何かに握られました。いや、なんとなくそう感じただけなのかもしれません。それを確かめることはおろか、振りはらうように空を両手でかきながら叫びたい気持ちを抑えて走り抜けました。
 モルタルとレンガで作られた塀に囲まれ、室井家の門灯の光が静かに来客を待っています。僕は自然石が緩やかなカーブを描くアプローチを駆け上がり、インターホンを押しました。ドアが開く間、通りを注視していましたが、その人が追ってくる様子はありません。
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