急に黙ってしまった満井の態度に、目の前にいる佐々岡がたまりかねて、机を指でコツコツと数回叩いた。
満井は机を見すえたまましばらく黙っていたが、ゆっくり顔を上げてこう告げた。
「す、すいません。もう話せません…」
「なんだ! 今まで調子よく話していただろ。ここからの話を聞くために我々はこうしてずっとつき合っていたんだ! このままじゃどんどん君の立場が不利になっていくんだぞ!」
さすがに温厚そうな佐々岡も声を荒めている。ここまで長い時間満井の話を黙って聞いていたのは、室井美月がどうなって今どこにいるのかを聞きたい一心だったのだ。ところがその肝心な所を話せないとあっては逆上するのも無理はない。しかしそんな佐々岡とは対照的に、横にいる田口は血の気が多くもっと怒りを放出させるはずが、なぜか視線を下方に固定したまま言葉も発しない。
「と、とにかく今は、話したくありません。また今度いいますから…」これまでずっと淡々と話していた満井の声が明らかに動揺している。やはり美月の失踪について決定的な何かを握っているため言葉に詰まったのだろう。そう考えた佐々岡が徹底的に問いただそうと腰をすえたとき、横で足を組んでいた田口が口をはさんだ。
「…佐々岡さん、今日はそのくらいでいいんじゃないですか。また明日来てもらいましょう…」
佐々岡よりはるかに若い田口がめずらしく反論した。確かに普段から自分勝手なところがある田口だが、尊敬している佐々岡のいうことだけには従う男のはずだった。
「お前も何いってるんだ! こっちは時間がないんだぞ、少なくても室井美月は出血したままいなくなったんだ! 悠長に構えていられないんだ…」そういい終わる前に佐々岡は田口の態度に異変を感じ声が消えてしまった。
同じなのだ。今、この部屋にいる満井と田口、この二人の様子がまったく同様に顔を下方に向けたまま、固まったように体を動かさない。
「満井、今日はいい…帰れ!」軍の隊長さながらに田口は言葉を吐きすてた。その勢いに佐々岡も反論するタイミングを失ってしまい、満井が上半身をほとんど動かさず席を立った。
満井はまぶたを震わせながら田口に目をやると、彼は小さくうなずいた。
「…ったく、どうするんだよ。あれだけ長々話を聞いていたのに、重要なところがまったく聞けなかっただろうが。しかも訳のわからん足の話をはじめるし、わかったのは美月と父親との近親相姦の事実くらいじゃないか。それ以外なんの参考にもならん! 室井哲夫には明日また満井の前に話を聞こう。ちっ、こんな調子じゃこの事件がいつ解決するかわからんぞ!」
満井が部屋をでると、堰をきったように佐々岡が声をあげた。
「…これは、きっと解決しませんよ。室井美月はもうその夜に殺されています」
田口は顔を強ばらせつつ吐きすてるようにいった。いつもの強気な態度とは明らかに違っている彼はまだ机の横を見つめている。
「殺された! 満井にか?」
「いえ、…室井悠子にです」
「はぁ? 何いってんだ田口! 母親は二年前に自殺しているんだぞ。この世にいない人間がどうやって人を殺すんだ?」
まるで話にならないと、あきれたように部屋をでていく佐々岡を背中に感じながら、田口はつぶやいた。
「足が…。彼女は今もここにいたんですよ…」
田口の視線の先に光るもの。満井とともに部屋を後にしたあの足が立っていたところには、ラメが散りばめられた真っ赤な爪が一枚落ちていた。
「満井君…」
警察署の寒々としたフロアロビーから呼びかけた男は室井哲夫だった。自分の事情聴取のあとずっと待っていたのだろう、満井に気がつくと力無く足を運び近づいてきた。
すでに室井にも以前までの生気がまったく感じられない。あの日から二日間仕事も休んでいることは、にわかに映えている無精ヒゲから推測できる。当然娘の安否ははっきりしていないので、今はしょげずに彼女の発見を祈るべきはずなのに、父はすでに抜け殻のようなありさまだった。
「待っていたよ、満井君…」
小雨のふるなか傘もささずに二人は歩いていた。ふと見覚えのある道に、満井は室井家が警察署から近いことに気づく。
「美月は…きっと悠子に殺されたんだね。君と美月がつき合っていたなんて全然気がつかなかったよ。どうりで最近様子が違うはずだった」
確認するような室井の口元は、開きなおっているように笑っていた。満井はその質問に答えようと左側にいる室井に視線を移すと息が詰まった。
彼のすぐ肩越しに足が見えるのだ…。爪のない青白い粘土のようなあの足が室井の真後ろについてくる。思わずその足から上をなぞるように視線を移してもそこには誰もいない。何度も視線を往復させても下を見たときの足首だけしか確認できない。
しかし満井の脳裏には室井家で見た悠子の醜い形相がしっかり想起され、あの晩の惨劇が蘇ってくる。こみ上る吐き気と同時に、全身の血流が鈍ったようなしびれを感じる。
「て、店長ぅ…」
「そういえば以前君は、娘さんと仲良くしていると奥さんが嫉妬しますよ。なんて冗談をいったことがあったね」
室井は天を見上げ雨滴をうけながら静かに話しはじめた。その目ははるか遠くを見つめ、満井の言葉など耳に届きそうもない。
「それはまったくの冗談でもなかったんだ。もう美月から聞いたかもしれないが、悠子の連れ子だった美月とはじめてSEXしたのは四年前だった。悠子との結婚で高校生の美月と住みはじめたときから、すでに私のなかの神経が狂いはじめた。美月は美しすぎた。そして美月が父親以上のものを求めた瞬間、私は彼女の親ではなくなってしまった…んだ」
何度視界を室井に向けてもやはり足が、悠子がそこにいるのだ。彼はその存在に気づいているのだろうか、その上でこんな話をはじめたというのか?
「二年ほど前、とうとう美月との関係が悠子に知られてしまった。あいつは驚き、苦しみ悩んだ末に、美月との関係を絶って今までどおり家族として生活してほしいと願い出た。悠子は惨めなそれでも、自分の立場よりも三人での生活を望んだんだ」
「しかし…私はその気持ちを拒んでしまった。もはや美月への想いを消すことも隠すことさえできなくなっていたんだ。次の朝、悠子はリビングでのたうち回っていた。発見した美月が私を呼んだ時には、ただれた口から血をまき散らしながら、悠子は獣の奇声のような声を私たちに浴びせていた。なんていっているのか、聞き取れなかったけど内容には察しがついていた。相当の苦しみのなか、悠子は体中をかきむしったらしく、見つけたときにはあらゆる皮膚が切り刻まれたようにボロボロだった…。誰にも邪魔されないところではなく、あくまでもあの家で断行したのは、その姿を私たちに見せつけるためだったんだろう」
その話を聞き満井は当惑した。悠子が自殺を図った直接の原因は、三人での生活を拒んだ店長だったのだ。彼女の申し出通りにしていれば、自殺することはなかったかもしれなかったというのか。
「それからだ、私の写真に足が映るようになったり美月の目にもそれが写るようになったのは。悠子は強い怨念を抱きながら、私たちからずっと離れずにうかがっていたんだ。…殺すタイミングをね。君と美月がつき合い幸せを感じたところで、悠子は時が来たんだと思ったんだろうな」
満井は言葉を失い目を細めた。
「三、四日前から美月は家をでたいといいはじめていた。私たち二人が離れれば悠子が現れなくなると考えていたんだろう。…しかしどの道、美月はこうなる運命だったんだ、君のせいじゃない」
満井の心には室井哲夫に対して疑念を抱いていた。確かに美月は実の母親を裏切った。しかしそんな美月を義父である哲夫が静止しなくてはいけなかったのだ。しかし彼はそれを怠ったばかりか、義娘の誘いを欲望のまま受け入れただけでなく、三人で暮らしたいという悠子の譲歩すら踏みにじった。
「美月の運命はもっと変えられたはずです。それをあなたが閉ざしてしまったんだ。あのビデオテープさえ僕に見せなかったら、真実を僕が追究しなかったら美月は殺されなかったかもしれない…」
「いや、私たちは悠子に審判を仰ぐべきだったんだよ。このままでは生まれ変わっても、きっとこの業苦に苦しむことになるだろうからね…」
「あの晩悠子さんはまるで僕を美月に会わせないようにするみたいに、足だけで姿を見せました。あなた達同様に僕の前にも彼女が現れたんです。きっと彼女の心のなかに娘を殺したくないという気持ちがあったんでしょう。それでも美月は殺されなければならなかったんでしょうか!」
満井の訴えにさえ室井の表情は変わらなかった。しかしこの男は美月を失っておかしくなったのではない。妻の連れ子と姦淫したときからすでに何かが狂いだしていたのだろう。
しかしその罪がどれほどだろうとも哲夫はすでに廃人のようになってしまった。家族二人に憎しみや哀しみだけを残して先立たれたこの主人が、以前のような明るい人格に戻る日はもう来ないだろう。
道は県営団地を過ぎ、見たことのある家にたどり着いた。昼間はまだ捜索をしていたようだったが今の時間は誰もいない。時折門灯に溜まった雨水が下に敷いてある青シートにこぼれ、ブツブツ…と現実的な音を鳴らす以外は、このあたりは静まりかえっている。
西の空が一際どんよりしている。この様子では夕から雨足が強くなるかもしれない。
「ちょっと疲れたな、私はすこし休むよ…。明日は一応出勤してくれ。長谷部君も一人で大変だろうからね」
「店長、まだこの家に入るんですか…?」
室井はすでに娘がどうなったのか把握している。しかし彼は妻の悠子が自殺をし、彼女によって愛する義娘を殺されたこの家に入ろうとしていた。
そんな室井の眼こそもはや亡霊そのものに見えた。すべてを失い、何かを悟って覚悟を決めたとでもいうような心魂に徹している態度にも見える。
「満井君、美月は…苦しんだのかな?」
弾力をまったく感じないほどやわらかい笑みを浮かべながら室井が聞くと、満井は小さく点頭した。もうこの男を救う手だてはない。そう、美月が差しだす手を握れなかったときと同じ気持ちで、意志薄弱となった室井を見つめている。
「…では、僕は失礼します」
ふり返った満井は来た道をもどりはじめた。小雨が降るなか、視界を探るが足はもう見えない。
恐らく彼女は…。
かなり思い迷ったあげく、五十メートルほど歩いたところで満井は意を決して室井哲夫をふり返った。
「くっぅ!」
力なさげに手を振る室井の目の前、すでに触れているのでは思うくらい至近距離に、血汁でまだらに染めあげたワンピースを着た悠子が立ち、哲夫と向きあっていた。
胸筋をえぐるような満井の鼓動が一息にわき上がった!
もはやここから両者の表情をうかがい知ることはできない…。
―了―
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